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さだまさしとの出会い
私、さだまさしファンになって、多分、もうすぐ40年(笑)
小学校4,5年生だったと思います。夏休み、母と「徹子の部屋」を見ていて、銀縁メガネをかけた優しそうな神経質そうな、でも、しゃべりがとっても面白いお兄さん(当時ですよ)が出ていました。
「これ?だれ?」新聞のテレビ欄で確認すると、小学生でも読める、
ひらがな五文字「さだまさし」ふ~ん。面白いじゃん。何やってる人?
「歌手・シンガーソングライター」へー。
当時のわたしはご多分にもれず、ピンクレディーが大好きで、近所のお姉さんや、同級生とピンクレディーの振り付け完コピに向け、日夜練習に励んでいる普通の小学生でした。
それが、この瞬間「面白いさだまさし」にすっかりハマり、それから、レコードを買い、聞きまくり、雑誌の切り抜きをスクラップするという、追っかけファンに変貌したのです。
何が気に入ったのかわかりません。痩せて、メガネをかけて、面白い人。
唄なんてどうでもいい。とにかく「さだまさし」情報を入手するのに、夢中になっていきました。
まあ、そんな話しはさておき、最初に書く話しは、水戸とさださんの名曲
「道化師のソネット」の意外なつながりについて書いていきます。
映画「翔べ!イカロスの翼」主題歌「道化師のソネット」
この歌はさださん主演の映画「跳べ!イカロスの翼」(1980年公開)の主題歌として作られました。
カメラマンだった青年がサーカスに魅せられ、サーカス団の一員となり、芸を特訓し、ピエロとなって観客を笑顔にさせていく”ピエロの栗ちゃん”こと栗原徹の青春を描いた草鹿宏のベストセラーが原作になっています。
撮影にあたりさださんは、キグレサーカスで一輪車、綱渡りなどの芸を実際に特訓して撮影に臨みました。
本人曰く、「運動神経」は抜群とのこと、かつて、裸足での100m走でのタイムや、テニス部で活躍していたこと、自慢げにステージトークで話していました。
映画では、一輪車に四苦八苦ですが、乗りこなす姿と観客の心をつかむトーク?にキグレサーカスの団長に「うちに来ない?」と誘われたこともエピソードの一つ。
撮影はおそらく1979年。 当時 さださん27才! 若い!
痩せていて、神経質そうなお兄さんでした。
ちょうど私がさださんにハマった頃です。1979年、さださんの「関白宣言」「親父の一番長い日」「天までとどけ」が大ヒットし、紅白歌合戦にも出場しています。 よく、さださんが「当時はアイドルでしたから」と言ってます。そのくらい大人気だったんですね。
その話はさておき、
ピエロの栗ちゃん 水戸とのつながり
ネタばれもあるのですが、このお話しはノンフィクションが元になっています。
木下サーカスの団員だった”ピエロの栗ちゃん”は、サーカスの公演で全国を回ります。そして1977年(昭和52年)、水戸の千波湖に公演にやってきます。
当時、千波湖周辺に レイクランドという遊園地がありました。観覧車、ジェットコースターなど、子供たちで大人気でした。
わたしはその時のことは覚えていませんが、この事故についてはかなり話題になっていたのではないかと思います。
サーカスの公演中、命綱なしで綱渡りをしていたピエロが、綱から落ちて帰らぬ人となりました。
そうです。この「跳べ!イカロスの翼」の主人公 その人です。
栗原徹さん。この方の姿を描いた映画です。
衝撃的な事故ではありましたが、それだけに多くの人の記憶に残ったのではないでしょうか?
さださん演じる「ピエロの栗ちゃん」は何故か涙をながしています。
心に秘めた悲しみや、観客の心の中にある「涙」を「笑顔」に変えるピエロの姿。
まさに歌の通り、
君のそのちいさな手には 持ちきれないほどの悲しみを
せめて笑顔が救うのなら 僕はピエロ(道化師)になれる
(道化師のソネットより 抜粋)
青春をピエロに捧げた青年の姿と、みんなを笑顔にしたいという想い。
この映画の舞台(映画の中では実際に水戸での撮影ではなかったと思います)となったのが、水戸なんです。
「跳べ!イカロスの翼」=主題歌・「道化師のソネット」=水戸との深ーいつながりはここにありました。
切ない切ない、お話しですが、私たちの心の哀しみを笑顔で軽くしてくれる
道化師に僕はなれるよ。このメッセージで、本当に救われる気がするのです。
私にとっても、ファンにとっても大事なうたの一つです。
ぜひ、聴いてみてください。